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いくつかの夜の先に | 第3話「新しい暮らし、たのしみね」

ぱた、と日記を閉じると、外はもうすっかり暗くなっていた。

不意に、わからなくなる。今どこにいて何をしていて、このあと何をするつもりだったのか。日記の中から溢れ出した過去が、わたしの中へなだれこんできて、現在と混ざり合って自分がどこにいるのかわからない。深い記憶の海に、ごぽごぽと飲み込まれていく。

18歳のころからゆるく続けていた日記は、わたしにいろんなことを思い出させた。カズヒロとのことも、それから「自由」をほしがらなくなった瞬間のことも。時に力なく、時に浮き足立っていた文字たち。あの頃、わたしはどんな顔でこれらを書きつけていたのだろう。それぞれの出来事は思い出せるのに、それらはどこか他人事のように遠い。

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テロリンッ。

現実に引き戻すようにスマホが鳴り、画面を見ると恋人からのメッセージが表示されていた。あ、そうだ、今日の夜はコウスケが来るんだった。30分後には上野駅へと着くという。

過去からの追っ手を振り払うように勢いよく立ち上がり、カーテンを閉める。日記帳は、ダンボールの中に並ぶ本の一番下へそっと入れた。

ふぅっと息を吐き、部屋中を見渡す。

あちらこちらに積み重ねているダンボール。スペースを取るために縦に置かれている小さなソファ。引っ越しはもう間近に迫っているというのに、荷造りをしていると、すぐに脱線して別のことをはじめてしまってなかなか進まない。玄関に置いてあったゴミ袋をガサガサと音をたてながら閉じる。ひとつ、ふたつ、みっつ。いっぺんに持ち上げて表へ出ると、外はひんやりとしていてまた冬の面影が漂っていた。

3階建てのアパートには、エレベーターはない。2階の部屋からごみ捨て場までの階段を降りる途中、隣の住人に会った。ネルシャツとジーンズ、その上にはダウンを着ている。彼はいつもその格好だ。ゴミ袋を3つも持っているわたしを気遣って階段の端に寄ってくれたが、「こんばんは」と声をかけても返事はなかった。彼は、わたしが越してきた日から今日までずっと、こうだった。ブレないなあ、などと頭の隅でぼんやり思い、ここに住んだ6年のことを思った。トントンと彼の覇気のない足音が2階へあがり、鍵のチャラチャラという音が聞こえ、わたしの隣の部屋のドアがバタンと閉じた。彼の姿を見るのも、今日が最後かもしれない。

次に住む街は、こことはだいぶ違う。コウスケと暮らす新しい家は、ちょっと贅沢に2LDK。リビングは10畳もある。その代わり、都心からはだいぶ離れてしまうが、ふたりの勤務地の間をとれば妥当なエリアだった。駅を出て、ぽつ、ぽつとお店があるだけのあの街。福岡に住んでいた頃は、聞いたこともなかったあの街。あと数日後には、そこが「帰る場所」になるのだ。大人になって良かったことの一つは「帰る場所」を自分で選べるようになった贅沢にあると思う。もっとも、そんなことを思うようになったのはここ最近だけど。

そういえば、24時間やっているファミリーレストランは近くにあっただろうか? あとでコウスケと一緒に、地図を見ながら確認しよう。それからコウスケの好きな、珈琲屋さんがあるかどうかも。

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コウスケを迎えに駅へと歩き出すと、いつも通る道のすぐそばにハクモクレンが咲いているのが目に入った。きっと昨日の暖かさで、春が来たと勘違いしたのだろう。寒々しい雨上がりの夜に、ぼんやりと浮かぶように咲いている幻想的な白い花たち。葉っぱのない枝に、不釣合いなくらい大きな花が咲くハクモクレンは、わたしにとって“冬を越えた楽しみ”だ。

2週間ほど前、つぼみが膨らみ始めたのを見て、コウスケと「咲くのが楽しみだね」と言い合った。はやく教えないと。スマホを取り出し、写真を添えて送る。

『咲いてた!』

コウスケにあれを教えたい、見せたい、話したい。いつ、どこにいてもそう思うようになった。もちろんこれまでにも恋は幾つかしたが、こんな気持ちになったことはなかったから、自分でも意外に思う。これまでは、自分中心の考え方から抜け出せなかった、というか、嗜好品としての恋だった、というか。それがコウスケと付き合ってからというもの、「一緒に生きている」という感覚に変わったのだ。不思議。こんなふうに寄り添って生きているような感覚で居られるなんて。昔はどちらか一方に寄りかかることしか、できなかったから。人は、自分ひとりでも立っていられるようにならないと、誰かを幸せにはできないのかもしれない。そうでなければ、片方の重みで、どちらかが倒れてしまう。

『あ、咲いたんだね』

『そう』

『教えてくれてありがとう』

『はやく言いたくて』

『あとで一緒に見ようか』

角を曲がれば、店が増えてくる。夜になり、街が賑わいはじめる時間だ。ぶらさがっている赤提灯、陽気なサラリーマン、片言で話しかけてくる外国人。それらを上手にすり抜けてコウスケのもとへと向かう。

以前なら、陽気な誘いにのってふらりと飲みにいくこともあった。先輩から誘われて、乃木坂まで繰り出した夜も。でも、ここ1~2年はそういう遊びもぱたりとやめてしまった。コウスケがいるから。そういう遊びよりも、コウスケと一緒にご飯を食べる方が楽しいから。それは、幸せなことであり、時に窮屈なことでもあった。でも。もし「窮屈だよ」と言葉にすれば、そのときわたしは絶対に笑みを浮かべているだろう。それがわかっているから、わたしはこの生活を今は続けていける。

「女は、いや、スミーは、大事なものがわかっているもんね」

引っ越しを決めたと電話をした時、先輩は言ってくれた。昔はキティばかりを飲んでいた先輩も、産休でしばらく休んでいる。

「大事なものがわかるようになるには、時間が必要だから」

そう笑っていた。

駅前の歩道橋をあがり、開けた場所に立つと賑やかな上野が見下ろせる。喫煙所の反対側で手すりにもたれかかり、空を見上げると冬の大三角形がはっきりと見えた。これだけ明るい上野の街でも、あの3つの星たちだけはいつでもよく見える。あの街へいっても、それからこの先、どの街へいっても、冬になればこの星々が現れるだろう。今の、ゆるやかな幸せをしっかりと星座に“くくりつけた”。忘れることがないように。

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ブルル、ブルルとスマホが揺れる。

電話をかけてきたのはコウスケかと思ったが、表示されたのは「お母さん」の文字。

「もしもし? あ、スミレ? 引っ越しの準備、進んでる?」

「うん」

答えながら、あれ……と思った。これは、どこかで聞いたことがある。あのときわたしは山積みのダンボールを目の前にしていて……。ええと、あれは夢だっけ? それとも……。ああ、そうだ。思い出した、上京するときだ。同じように母と電話をして……、そして母はあのときも、こう言ったんだ。

「新しい暮らし、たのしみね」

前よりはずっと、この言葉をそのまま受け止めることができるようになった。甘美な響きの中に、不安はほとんど混じっていない。そのことに気づき、ふたたび幸せを噛み締める。

電話を切った後、「おまたせ」とコウスケが来た。

「なにしてたの?」

「あれ」

「ん?」

「冬の、大三角形」

「ああ。ほんとだ、綺麗に見える」

「あの星に、くくりつけたの」

「ん? なにを?」

「いまの、気持ちを。どこにいても、思い出せるように」

コウスケが、この言葉の意味をどう捉えたのかはわからない。

でも少し笑って、「見失わないから、いいね」と言った。

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この先も、きっと心が激しく揺れたり、激しく落ち込んだり、不安で心もとない気持ちになる夜もあるだろう。でも一方で、幸せに満ち満ちて、安心とほのかな倦怠に、心癒される夜もあるはずだ。この先も幸せでいるために何が必要なのかは、わたしにもわからない。

けれどひとつだけわかることがある。

いくつかの夜の先に、

いまわたしは立っているのだ。

これからも、この先も、そのことだけは変わらない。

ほのかな希望が、心に膨らんだ。それはハクモクレンに似て、長い冬を越えられそうなくらいの、淡くてたしかな希望だった。

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